金子孝信~絵に託した熱き想い~ at にいがた文化の記憶館

アート・展覧会

夭折の画家、金子孝信(1915~42年)の企画展が現在、にいがた文化の記憶館で開催中だ。
孝信の絵を初めて観たのは、潟東樋口記念美術館内にある「金子孝信作品コーナー」だった。今回の企画展のチラシにも使われている、銀座の街角を描いたものだ。観た瞬間、釘付けになってしまい、しばらく絵の前から動けなかった。描かれたのは1936年。タイトルはずばり《銀座街頭》。「GINZA」の文字のネオンが光り、ショーウィンドウは華やかに飾られている。場所柄もあるだろうが、男女ともオシャレで、女性の髪にはウェーブがかかっている。この後、日本が辿っていった運命を考えると、胸が締め付けられる思いだ。

《銀座街頭》1936(昭和11)年

もちろん、そのような感傷のみが私の心を惹きつけたわけではない。当時は既に軍国主義の台頭があったはずだが、若い男女はそんな忍び寄る暗い空気をものともせず、思い切り青春を謳歌している。おそらく彼ら、彼女たちの胸にも得体の知れない不安があったはずだ。しかしその影を都会の灯りと、輝く若さが見事に打ち消している。

なんと美しい1点なのだろうかと感動すると共に、芸術でしか伝える事の出来ない「時代の空気や真実」というものが確かにあって、それがこの絵に息づいていると感じたのだ。

《自画像》1938(昭和13)年、23歳頃の金子孝信

企画展は「故郷」「戦争」「画学生になる」「孝信と家族」「風景」の5つのテーマに沿って展示されている。
孝信は新潟市中央区長嶺町にある蒲原神社の神官の家に生まれた。萬代尋常小学校を卒業後、旧制村上中学校(現・村上高校)へ進学。その後、旧制新潟高校を受験するも不合格だった。
孝信は上京して、姉・睦(むつみ)のアパートで同居を始めた。この睦は孝信の絵にモデルとしてたびたび登場している。

《化粧の女》1934(昭和9)年、姉をモデルに描いたとされている

孝信はどのような人物だったのか。
蒲原神社で宮司を務める金子隆弘さんは孝信の甥にあたる人だ。隆弘さんは1929年生まれで、孝信とは14歳違い。「ですから、叔父が上京した頃は私はまだ4歳くらいなので、当時のことはあまり覚えていません」と語る。だがその後、夏休みや正月などに帰省してくる孝信のことは、記憶に残っているそうで「とにかく、叔父は絵を描くために生まれてきたような人だった」と振り返った。誰かが訪問して話しているときも、食事中も、片時もスケッチブックを離さなかったそうだ。

故郷を描いた孝信のスケッチも展示されている。中央のものは「夏の古町、午后八時半」と書いてある

上京した孝信は、受験勉強をするはずだった。しかしどうしても美術への思い止みがたく、美術学校受験の希望を父と兄に伝える。本当は洋画をやりたかったようだが「日本画ならば受験してもよい」という条件で、承諾を得た。
父や兄が反対する中、母クミは西洋画をやりたい息子を応援し、内緒で油絵の具を買ってくれたという。母が贈ってくれた画材で、孝信は肖像画を残した。

《母の像》1934(昭和9)年

1934年、東京美術学校(現・東京藝大)の日本画科を受けるも不合格。翌35年に再受験で合格した。大学時代の孝信は、川合玉堂などの指導を受け熱心に絵を描き続けた。その一方で青春も、都会の生活も謳歌。ダンスホールに通うなどしていたそうだ。孝信はその様子を絵日記で詳細に残している。
もし孝信が、令和時代の美大生だったら、SNSを駆使して自身の作品や生活の様子を伝えたり、最先端の流行を追いかけたりしていたのではないか…などと想像してしまった。

絵日記も展示。「悲しみに沈む時、我はホールへ踊りに出かけるのであった」と記している

大学時代、コンクールでは常に上位の成績をおさめた。さらに卒業時の成績は首席と、かなり優秀な画学生だったようだ。ちなみに卒業制作の《季節の客》は東京美術学校の買い上げとなり、1940年4月に開催された、紀元二千六百年奉祝日本画展で、入選を果たしている。

《日劇前》1936(昭和11)年、大学時代の作品。学期末の競技の下図制作のため、銀座に出掛け、日劇付近の景色に心動いた旨が日記に残されている

卒業した1940年の12月、孝信は新発田の東部二十三部隊に入隊。翌年4月に中国へ送られる。そこで、孝信は幹部候補生としての教育を受けたという。
「征旅畫信」として、戦地で描いた絵が、新潟毎日新聞に掲載された。

「征旅畫信」の記事と、掲載された絵の原画

1942年4月、孝信は一時帰宅を許された。その時に多くの人から絵を頼まれ、色紙が数十枚も積まれた。あまりの注文の多さに心配した家族が、もう止めるようにと声をかけるほどだったそうだ。孝信は「帰ったら必ず描くから」と頭を何度も下げて、玄関に飛び出して行った。これが家族との最後の別れになった。

1942年4月、一時帰宅した際の家族写真。前列中央が孝信

亡くなる前年、孝信は百号以上の大作《天之安河原》を残している。友人に「自分の最後の絵」と告げ、遠くない将来「天地発祥の命の始まりである『天岩戸』に自分は帰っていく」と語ったという。

《天之安河原》下絵

家族に別れを告げた孝信は、戦地へ戻る。
1942年5月27日、中国宣昌にて戦死。26歳。
同年11月、新潟市の小林百貨店にて「金子孝信遺作展」が開催された。

小林百貨店で行われた「金子孝信遺作展」にて。左は東京藝大に買い上げられた《季節の客》

残された作品は遺族が保管していたが、戦没画学生の作品を集めた「無言感」で常設展示された後、再び生家の蒲原神社へ戻された。現在は、潟東樋口記念美術館内にある「金子孝信作品コーナー」で常設展示されており、いつでも孝信の絵を観ることができる。
もし孝信が戦争を生き抜いていたら、復興を遂げていく都会をどのように描いたのか、考えずにはいられない。

にいがた文化の記憶館
金子孝信 ~絵に託した熱き想い~ 2023年4月12日~7月9日
新潟市中央区万代3-1-1 メディアシップ5F TEL:025-250-7171
休館日:月曜日
午前10時~午後5時(入館は午後4時30分まで)
観覧料:一般500円、大学・高校生300円、中学生以下無料

和田明子 Akiko Wada

リバティデザインスタジオスタッフ/かわいいもの探求家。 新潟日報「おとなプラス」、県観光協会のサイト、旅行情報サイトなどさまざまな媒体にライターとして寄稿し...

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