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五・一五事件の海軍検察官、山本孝治

山本幸治
歴史

戦前最大の分岐点と評される五・一五事件。この歴史的大事件に地元出身の人物が関わっていたことはほとんど知られていない。山本孝治は海軍の検察官として、時勢の声や圧力に流されることなく、冷静に犯人たちに求刑を述べた人物だ。ぜひ多くの皆さんに山本のことを知ってほしい、そんな思いからこの特集を企画した。

月刊マイスキップ 2020年10月号 vol.237 より転載

五・一五事件の概要

 1932(昭和7)年5月15日は日曜日だった。時の首相・犬養毅はその日、来日中のチャールズ・チャップリンと面会の予定があり終日官邸にいた。だが彼の元へやって来たのは直前に面会を中止した喜劇王ではなく、武装した9人の陸海軍の軍人たちだった。突然の乱入にも犬養は動じることなく「まあ、話を聞こう」と応じて、タバコを取り出すと勧めるような仕草を見せた。さらに傍若無人に土足で上がってきた闖入者たちを「まあ、靴でも脱げや」とたしなめる余裕もあった。
 だが彼らは「問答無用、撃て」と銃弾を放ち、倒れた犬養を見て即死と判断。すぐにその場を引き上げた。しかし犬養は生きていた。介抱にきた使用人に「呼んでこい、今の若いモン、話して聞かせることがある」と何度か繰り返したと伝えられている。その後容体が悪化し、深夜に亡くなった。ほかに内大臣官邸、変電所、三菱銀行など複数の箇所が襲撃されたが、大きな被害はなかった。
 陸海軍人に民間人を含めた憂国の士たちがそれぞれの実行グループに分かれ、特権階級の象徴たる人物や場所を襲い、変電所を破壊し大停電を起こして東京を暗黒化、最終的には戒厳令を発令させるという壮大な計画は、中途半端に終わってしまった。かなり簡略化したが、これが五・一五事件のあらましだ。
 事件当時、山本孝治は海軍省法務局に在籍していた。犬養首相暗殺の報を受け現場に赴いた彼は、血の海の中で実地検証に当たった。

山本孝治 検察官任官のときの撮影

山本孝治の人となり

 ここで簡単に山本孝治の経歴を紹介したい。1885年6月18日、越路中沢の旧家に生まれた。自宅は残っていないが、現在は跡地に新しい家が10軒以上建っており、敷地の広さにあらためて驚かされる。山本家の遺構としては、菩提寺である明鏡寺(長岡市飯塚)に門が移築されており、屋敷の豪壮さを伺い知ることができる。進学した長岡中学の一級上にはあの山本五十六がいた。年上の五十六を「いそ」と呼び、かなり親しかったようだと教えてくれたのは、山本孝治を大伯父に持つ新潟市の歯科医・笹川太郎さんだ。「孝治は私の母・清(きよ)の伯父、正確に言うと清の母・直子の兄に当たる人物です。成績優秀で京都三高、東京帝大の独法科と進み、県庁勤務を経て出世コースの登竜門である文官高等試験に合格し、海軍に転出して海軍法務官になった」と話してくれた。
 法務官と聞くと謹厳実直なイメージが浮かぶが、プライベートではユーモアとウィットに富んだ人物だったようだ。孝治の妹・直子さんは、長岡商会や六十九銀行などに関わった遠藤亀太郎の次男で医師の亀二郎と結婚し、一時期兵庫県豊岡市で暮らしていたが、五・一五事件裁判の翌年、そこに孝治が訪ねてきた。その際、開業医として忙しい親に代わり、姪っ子たち(笹川さんの母・清さんとその姉妹)が、孝治を兵庫県香美町の大乗寺へと案内した。その寺は、円山応挙一門の襖絵など多くの作品があることから別名「応挙寺」と呼ばれているが、そこで当日展示していなかった応挙筆「鯉の滝登り図」を特別に見せてもらったという。笹川さんの母・清さんは「墨彩で描かれた滝の中に見え隠れする鯉の躍動感にしばし見惚れていた姿が印象的だった」と、名画に心打たれた孝治の様子を紹介してくれた。また夜には、当時の流行歌『酋長の娘』のレコードをかけて、身振り手振りよろしく南方で覚えたという踊りを教えてくれたというエピソードが残っている。

山本家の門が移築された明鏡寺の山門

裁判に臨む

 話を五・一五事件に戻そう。当時は裁判制度が現在とは異なり「分離裁判」が行われた。これは陸・海軍、民間と、犯人たちがそれぞれの所属に応じて裁かれるというものだ。事件関係者の尋問は、陸・海軍はそれぞれの軍法会議で、民間側は東京地裁の予審部で行われた。
 海軍の第一回公判は事件翌年の33年7月24日、神奈川県の横須賀鎮守府にて行われた。孝治は検察官としてこの任に当たったが、公判時に身に付ける下着は白色、出廷前に明治神宮へ参拝するというスタイルを貫いた。公判審理中には、被告たちを英雄視する輩から脅迫状なども届き、孝治の私邸には憲兵の警備が付くという物々しい状況だった。
 被告のなかに学生時代、弁論部に所属していた青年がおり、巧みな話術で傍聴者やマスコミを魅了した。被告たちは、政治が富裕層や権力者と癒着し腐敗していること、その一方で飢えに苦しむ人々がいることなどを切々と訴えた。自分たちは現状を何とかしたいと昭和維新を起こすべく立ち上がっただけであり、犬養首相個人に恨みがあったわけではない。首相の尊い死を転機として腐敗政治に終止符を打ち、維新の首途としたいという持論を展開した。涙ながらに切々と訴えるその様子に影響を受けた記者もおり、その後の報道にも影響した。
 かくして首相暗殺の大罪を犯したテロリストという実像から、理想に燃える青年たちの私心なき行動へと、印象が大きく変わってしまった。昭和維新行進曲なるレコードが発売されるなど、もはや社会現象と言える状況だったのだ。

五・一五事件記念特売として作られたツルレコードの「血涙の法廷」「昭和維新行進曲」。愛国ビジネスも度が過ぎたため発禁となった

ヤマ場の論告求刑

 海軍の論告求刑が行われたのは9月11日のこと。山本孝治検察官は論告執筆のために面会を謝絶して、8月30日から9月6日までかけて文案を作成したと伝えられている。ちなみに陸軍側の求刑は、先だって8月19日に行われており、全員が禁固8年と軽いものだった。だが孝治は世論や陸軍の判断などに流されることはなかった。海軍で裁かれた10名のうち、3名が死刑、3名が無期禁固という重い求刑がなされた。
 論告の全文は新聞号外として発行された。見出しには「救世済民の大理想も法を無視して存在せず。赤穂義士の快挙を引例して情理兼ね備へた論旨」と記されている。本文には「主観的には同情に値する点があるが、直に之を持って国家の危機と為し非合法行為に訴ふるに至りましたことは相当認識不足の点もあるのでありまして、国家の為誠に痛飲に堪へない次第であります」という一文がある。
 さらに終盤では、見出しのように赤穂義士に触れた。主君の仇討ちを果たした赤穂義士は大人気で彼らの減刑を望む声が多く、これを罰すれば忠義の道が墜ちるという意見もあった。それに対して法を犯して処罰された浅野内匠頭の側に汲みして処分を下せば、今後の法の支配が成り立たなくなると幕府が判断したという事例を引用し「四十七士の行動は被告人等の行動とは勿論同一性質のものではなく」と述べた上で「大体に於いて、天下の政道即ち国法が之を正さなければ」「(五・一五事件のような)犯罪を赦免又は減刑する如きあらば」今後に良い影響はないと見解を述べている。

1912年4月14日、県職に就いたばかりの頃、妹・直子宛てに出したはがき。新潟の白山神社祭礼のことや、日和山でだんごを食べたことなど、何気ない日常が綴られている

ねじ曲げられた判決

 当時はこの求刑を快く思わない者が多くいた。子どもたちに「忠君愛国」をどうやって教えたらいいのかと憤る学校教師や、「五・一五の方々を死なせたくない」という遺書を残して自殺する19歳の女性まで現れたのだ。
 雑誌でも求刑を巡る特集が組まれ、「山本検察官の論告は完全に日本を(賛成派と反対派に)二分した」と書かれるほどだった。
 実際に孝治の元には全国から多くの手紙が届いた。現存する384通のうち賛成が181通、反対が129通、減刑嘆願が38通と分類されている。
 身の危険を感じた孝治は東京の自宅を出て、長岡の実家などに身を隠さざるを得なかった。
 求刑から2ヶ月後の11月9日、海軍の判決が言い渡された。山本検察官の論告よりもはるかに軽いもので、死刑求刑の3名が禁固15年2名と禁固13年1名に、無期禁固3名は禁固10年、残りも軽い判決で執行猶予がついた者もいた。
 この判決の軽さが、五・一五事件の4年後に起きた二・二六事件を誘発し、政治の弱体化、軍部の台頭、そして開戦と、その後の日本が辿った運命の大きな布石となったという説もある。

五・一五事件の判決が出された後、1933年11月18日に、妹夫妻(遠藤亀二郎、直子)に宛てた手紙

早すぎる死

 結審後の11月18日、孝治は遠藤亀二郎・直子の妹夫妻に宛てて手紙を出している。そこには「五一五事件も一昨十六日を以て大団円ニ相成り申候」「判決之適否は識る人ぞ識るに候べく」と冷静に書き記している。だがやはり不穏な動きもあったようで警察から情報が届き「当方警戒之議もいたし候」とある。だがその後危険なことはなかったようで、「極平穏ニ御座候に付乍憚御安意願上申候」と報告をした後、妹の身を気遣う優しい言葉で手紙は締めくくられている。
 その翌年、長崎県の佐世保鎮守府管内で軍艦同士の衝突事故が起き、その処理にあたるため、孝治は現地に赴いた。そこで歯痛が起きたため抜歯をするが、それが元で敗血症を引き起こし、7月27日に49歳であっけなく亡くなってしまう。
 この時治療に当たった医師のひとり、青柳司郎さんは偶然にも長岡市出身だった。九州大学を卒業し、当時は九大付属病院の医局に勤務してしていたのだ(その後長岡市表町で開業)。後に青柳さんは「今のように良い抗生物質があれば」と孝治の死を惜しんだという。
 孝治の大甥にあたる笹川太郎さんは、その早すぎる死を五・一五事件で軍部、世論からさまざまなプレッシャーを受けた心労も影響したのではないかと推論している。
 軍人でありながら、軍の圧力に屈することなく法治国家としての在り方を貫いた山本孝治。その後、軍部の暴走により国が辿った悲劇の道を考えると、彼がその後も生きていたらどうなっていただろうかと、つい考えてしまう。「軍人は負のイメージがつきまとうためか、孝治の評価は十分に検証されていません。しかし彼は同郷の河井継之助、山本五十六に連なる人物として、もっと知られてほしいと思います。私自身、もう少し仕事を見届けたい逸材だったと感じています」と笹川さんは語った。(了)

●追記・訂正

上記記事を掲載後、青柳司郎さんのご子息から連絡をいただきました。
青柳さんによると、当時、青柳医師は九州帝大医学部付属病院の内科に勤務しており、佐世保海軍病院に入院している山本孝治の治療にあたることはなかっただろう、ということでした。
孝治の妻が青柳医師の従姉という関係で、見舞いに行っただけのようです。
ここにお詫びして訂正いたします。

■参考文献 「五・一五事件」小山俊樹著(中公新書)
 「五・一五事件と山本孝治検察官」(昭和56年5月・新潟日報掲載記事)
■協力:新潟ハイカラ文庫・笹川太郎さん
■企画・取材・撮影・執筆:リバティデザインスタジオ

リバティデザインスタジオ

新潟県長岡市のデザイン事務所。グラフィックデザイン全般、取材・撮影・ライティング・編集などの業務を展開。

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