没後50年 横山操展 at 新潟県立近代美術館

アート・展覧会

今年2023年は日本画家・横山操(1920〜1973)の没後50年に当たる。新潟県立近代美術館では、開館30周年記念の企画展「橋本龍美展」と同時開催のコレクション展として「没後50年 横山操展」を開催中だ。
操は以前から好きな画家だったのだが、新潟日報夕刊「おとなプラス」の2021年2月5日号に特集記事を書いた際、生前の操を知る関係者から話を聞き、さらにファンになってしまった。今回は近美が所蔵する全68点を一挙公開、加え他館所蔵品の特別展示もあるという。担当学芸員の長嶋圭哉さんによる作品解説会に参加しながら、作品を鑑賞した。

大型作品が並ぶ迫力の会場

操は、西蒲原郡吉田村(現燕市)の生まれ。20歳で召集され戦後は現在のカザフスタン共和国で抑留生活を送り、帰国したのは10年後だった。貴重な20代を戦争に奪われ、さらに53歳で生涯を閉じているため、その画業はわずか20数年という短いものだった。
会場には所々に操の写真も展示されており、陸軍時代の若き日の姿も見ることができる。
最初に《母子》が展示されているが、それ以降は作品がほぼ年代順に並んでいる。そのため作品を見ながら解説を読んでいくと、まるで横山操の人生をひもといていくような構成になっている。

操が妻と長女を描いた《母子》(1958年)

第1章は「戦前期─中断された創作活動」だ。
出征する20歳までの作品が展示されている。操が洋画家を志して上京したのは1934年。銀座で暮らす画家・石川雅山の家に身を寄せた。雅山は一壺堂図案社というデザイン会社を経営しており、操はそこで版下やポスター描きなどを手伝った。雅山の勧めもありその後、川端玉章が創設した川端画学校の夜間部で日本画を学び始める。

一壺堂図案社時代の作品たち

その翌年、20歳のときに操は日本画家・川端龍子が主宰する「青龍展」で入選を果たした。作品タイトルは《渡船場》。それにかけて龍子は「これが君と青龍社をつなぐ渡し船になるといいね」と温かい言葉をかけてくれた。
だが操は招集され、戦地へと赴くことになる。
戦地から戻った操は30歳になっていた。一時吉田に帰郷するも、青龍展を観たいと言い残して上京。再び石川雅山の家で暮らし始める。昼はネオン会社でデザイン、夜は一壺堂図案社の仕事、そのかたわら日本画制作という多忙な日々を過ごした。
第2章では復員後の作品を「再出発─青龍社での活躍と脱退」として紹介している。

《カザフスタンの女》(1951年) 春の青龍展の出品作品。モデルになった女性はネオン会社の同僚で、後に妻となる杉田基子さん

学芸員の長嶋さんは「横山操のテーマカラーは黒」と話す。「そこには実は高価な絵の具を買えず、安価な黒絵の具を多用したという事情もあった」と解説した。
しかし黒々とした画面に差し色として明るい色を落とし込むことで、強烈な印象を与える作品を生みだすことになった。長嶋さんは「ぜひ色に注目して鑑賞してみてほしい」と話した。

《岳》(1959年) 群馬県の妙義山に登ったときの印象をもとに描いた作品。黒に金銀箔を併用し、差し色の朱色がアクセントになっている

青龍社への復帰を果たし、結婚して子どもにも恵まれ、操の人生は公私共に満たされていく。
1959年には、村越画廊が当時新進気鋭だった日本画家三人を集めて企画した轟会に、加山又造、石本正と共に参加。会の名前は「3つの車がゴー・ゴーと進むように」という意味を込めて、操が命名した。
下の《朔原》は村越画廊で開催された第1回轟会展に出品されたものだ。

左が第1回轟会展出品作の《朔原》(1959年)

1962年、操の人生に大きな転機が訪れる。青龍展に出品予定の意欲作《十勝岳》が、主宰者である川端龍子の作品よりも大きすぎると、他の社人から批判され、サイズの縮小を要求されたのだ。これを機に操は青龍社から脱退する。

《十勝岳》(1962年) 幅6メートル超えの超大作!生で観ると迫力が断然違う

第3章「無所属時代─自らの原点を見つめて」では、青龍社脱退以後の作品が展示されている。操は活躍の場を広げ、海外への取材旅行を行ったり、加山又造とともに多摩美術大学日本画科教授を務めたりと、一躍日本画壇の寵児となる。
1964年の作品《高速四号線》は幅480cmと5メートル近い大作。長嶋さんは「五輪に向けて変わりゆく東京を描いたジャーナリスティックな視点を感じる」と評した。

《高速四号線》(1964年)

この頃から操は、故郷新潟の風景を描いたり、水墨画に挑戦したりと、作風が少しずつ変わり始める。長嶋さんはそういった一連の作品に対して「寂寥や叙情を感じる」と話した。

新潟県内で取材して描いた《雪峡》(1963年)

1968年には新潟などの風景を描いた水墨画の「越路十景」シリーズを発表。
下の《親不知夜雨》はシリーズ8景目と同じ絵柄で、新潟県美術博物館の依頼により1970年に再制作したもの。雨足は刷毛を用い、銀色の絵の具を刷いて表現している。長嶋さんは「操の水墨画は伝統回帰にとどまらず、様々な技法の実験を試みて、新境地を見い出している」と解説した。

《親不知夜雨》(1970年)

展示室3では別章として「『中央公論』表紙絵と屏風絵」の展示が行われている。
操は1966年から3年間にわたり、36号分の表紙を手掛けた。若き日にデザインの仕事をした経験をいかんなく発揮し、小さなサイズながらそれぞれに見応えがあり、画家としての操の表現の幅広さを感じさせる作品群だ。

記念すべき第1回、1966年1月号の表紙は操の代名詞とも言うべき《赤富士》
1966年3月号《ウォール街》 ニューヨークのウォール街を描いたセンスが光る1点

なんとも華やかな雰囲気をまとった下の作品。黒の画家のイメージが強いが、操が描く梅の絵は色彩が明るく、花は愛らしく福々しい。それが堪能できる1点で、思わず足を止めて見入ってしまった。

1968年1月号《紅白梅》

新潟県立近代美術館
「没後50年 横山操展」コレクション展(2023年 第1期)2023年4月11日〜6月18日
新潟県長岡市千秋3丁目278-14 TEL:0258-28-4111
休館日:月曜日
午前9時〜午後5時(観覧券販売は閉館30分前まで)
観覧料:一般430円、大学・高校生200円、中学生以下無料

リバティデザインスタジオ

新潟県長岡市のデザイン事務所。グラフィックデザイン全般、取材・撮影・ライティング・編集などの業務を展開。

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