長岡が生んだ漱石門下の小説家・松岡譲の特別展示 at にいがた文化の記憶館
新潟市中央区、萬代橋のたもとにそびえ立つ新潟日報メディアシップ。その5階に入る「にいがた文化の記憶館」で「生誕130年 松岡譲(ゆずる)」が開催中だ。夏目漱石の門下生であり、漱石の長女・筆子の夫でもある松岡。漱石から「越後の哲学者」と呼ばれ、あの「則天去私」という言葉を漱石から引き出したとされるその人物像は果たしてどのようなものだったのか。学芸員の伊豆名皓美さんに展示会場をご案内いただいた。
その青春時代
展示は全部で5章仕立てで、時系列順に松岡譲の人生を辿れるようになっている。
第1章のテーマは「青春の彷徨・習作時代」。
松岡譲は1891(明治24)年、新潟県古志郡石坂村(現・長岡市村松町)の寺に生まれた。旧制長岡中学(現・長岡高校)では詩人の堀口大學と、東京帝国大学哲学科では芥川龍之介、久米正雄らと交友を結んだ。
松岡は真宗大谷派本覚寺の跡継ぎだったが、仏門に反撥し文学の世界へと進むことになる。伊豆名さんは企画展開催にあたり本覚寺を訪れており、「この自然豊かな環境で松岡は幼少時代を過ごしたのか」と感慨深かったそうだ。
長岡中を出た後、上京して旧制第一高校に進んだ松岡は、学友たちとの交流を通して文学を志す。さらに彼らの手引きにより夏目漱石を訪ねたことが縁で、漱石の門人となるのだ。哲学を学んでいた松岡に対して漱石は「越後の哲学者」というニックネームを送ったと伝えられている。
上の写真は第4次『新思潮』同人の仲間たちと1916(大正5)年に撮った1枚。文学史に残る作家たちの若き日の姿を映した貴重なものだ。なお新思潮の同人には菊池寛もいるが当時京都帝国大学の学生だったため、この写真撮影には参加していない。
これは芥川龍之介が松岡に宛てた手紙だ。松岡が1916年10月『新思潮』に発表した『青白端渓』という小説に感銘を受けたことが綴られている。最後に「あしたから勉強だ」という一文があり「いかに芥川が松岡の作品に刺激を受けたのかが分かる言葉」と伊豆名さんは解説した。
文壇への登場
第2章では文壇での松岡譲の活躍ぶりが分かるような展示がされている。1916年に漱石が死去。大黒柱を失い、女性と子どもだけになった夏目家の状況を不安に思った鏡子夫人からの依頼もあり、漱石の弟子たちは交代で夏目家を訪ねた。「なかでも松岡は信頼が厚く、よく夏目家に行っていたようです」と伊豆名さんは説明する。
翌1917(大正6)年、松岡は東京帝大を卒業。男手として、また子どもたちの家庭教師として夏目家に身を寄せる。そして短編『法城を護る人々』を発表。芥川はまたしても松岡の作品を褒める内容のはがきを送っている。
その頃夏目家では、その後の松岡に大きな影響を与える事件が起きていた。漱石の長女・筆子に恋をしていた久米正雄が、鏡子に「娘さんをください」と結婚を申し出るのだ。
鏡子は「娘さえよければ」と答えるが、筆子は以前から誠実な松岡に好意を抱いており、久米は恋破れる。そして1918(大正7)年に松岡は筆子と結婚。これを機に松岡と久米は離反してしまうのだ。
数年の沈黙の後、1921(大正10)年に『遺言状』を、翌年には初の単行本『九官鳥』を刊行する。
だが久米正雄が1922(大正11)年、筆子との恋愛譚を書いた『破船』を発表。これが世間の同情を集め、松岡は悪者として窮地に立たされる。
「当時は小説がそのまま事実として信じられるほど、文学に影響力があった時代ということでしょうか。しかし孤立した松岡が漱石山房の膨大な書を読み、思索にふける時を持てたことで英気を養うことができたと語る評論家もいます」と伊豆名さんは解説。
こうして「越後の哲学者」と評された松岡は、久米や菊池寛が流行作家となるのとは対照的に、寡作の純文学作家として活動をしていくことになるのだった。
1923(大正12)年、松岡は代表作となる『法城を護る人々』を発表した。当時の新聞広告には「満五ヶ年の努力にて漸く完成したる千五百枚の大長篇」とある。出版社の第一書房は新潟県三島郡出雲崎町出身の長谷川巳之吉が興したばかりの会社で『法城〜』が最初の出版物だった。その後も松岡は第一書房から著書の多くを出版することなるのだった。
ちなみに芥川がほめた短編の『法城を護る人々』は区別のためか、後に『護法の家』と改題されたそうだ。
漱石研究者として
第3章は「漱石研究・漱石への敬慕」として、漱石に関する松岡の著書が展示されている。松岡にとって漱石は「岳父(妻の父)」というよりも、どちらかというと終生「師」として敬慕する存在だったと展示パネルには書かれている。
漱石は晩年、良寛に傾倒していたそうで、それについて言及した松岡の「良寛と漱石」の直筆原稿も展示されている。1942(昭和17)年、新潟県中央新聞に掲載。
漱石の13回忌にあたり刊行された『漱石写真帖』も展示。これは夏目家の家系から始まり、漱石の幼い頃から逝去までの写真が収められており、内容は一部パネル展示されている。「刊行の辞には署名がないが、漱石山房記念館に松岡譲の原稿が寄贈されて、松岡の文章ということが判明した」そうだ。
なお『漱石写真帖』は長岡市立中央図書館も所蔵しており、館内利用のみではあるが閲覧が可能だ。
松岡の文人趣味
松岡の父・善淵は、早くに父を亡くし教育を受けられなかったせいか、寺の住職にも関わらず書がだめで苦労をした。そのため、自分の息子に書道の特訓をしたそうだ。自身も書を嗜むという伊豆名さんは「松岡は書家としても非常に魅力的な人物」と語る。
また松岡は、夏目家に寄寓していた画家の津田清楓から直接絵の指導を受けており、晩年は書画の個展を度々開いていたという。第4章ではそんな彼の文人としての一面が紹介されている。
漱石の残した言葉に「則天去私」という造語がある。これは漱石が晩年に理想とした精神的心境を表す言葉とされているが、じつは松岡と交わされた「宗教的問答」から生まれたのだとか。意味は松岡によると「小私の私を去って、もっと大きな普遍的な大我の命ずるままに自分をまかせる」となる。
展示では漱石、松岡それぞれの書が並べて展示されている。
※漱石のものは複製
これは松岡自身が書いたという自宅の表札だ。松岡邸の門にこれがかかっていたのかと思うと、彼のファンにとってはうれしい展示のひとつではないだろうか。
松岡は良寛遺墨の影印集(複製本)の出版を企画したことがあった。その際に良寛研究家である相馬御風に教えを乞うため手紙を出し、ふたりの交流が始まった。御風最晩年の頃だったため付き合いは1年に満たなかったが、その縁で御風の端渓の硯を遺族から贈られている。
故郷への回帰
1944年、東京の空襲を避けて松岡は家族とともに故郷長岡に疎開。そのまま1969年に亡くなるまで永住した。パネルでは長岡出土の火焔土器を1964年の東京五輪の聖火台のモデルとして組織委員会に提言した活動などが紹介されている。
また戦後は多くの学校の校歌を作詞している。
「私と松岡の出会いは実は校歌だった」と語る伊豆名さん。以前勤務していた博物館の企画展で、新潟市北区の岡方第二小学校に展示されている松岡が書いた校歌を借りることになったのだ。「そこで初めて松岡の書を見た。いろいろな校歌の揮毫を見てきたが、ここまで読み易くかつ完成度の高い書は他になかった」とその印象を語った。
書家には主張の激しい人もいて、ともすれば自身の技量を見せることに力を注ぐことも多いのだとか。書としては見事な出来映えだとしても、果たしてこれを子どもたちが読めるのだろうかと疑問に感じる揮毫もあったという。
しかし松岡は子どもが読むことを想定して、漢字にはルビを振ったり、大きな太い字で書きながらも行間は開けるなど心がけつつも、1枚の書として完成度の高いものを仕上げていることに伊豆名さんは感銘を受けた。
書は人なりという言葉がある。自分らしさを出しつつ、相手の立場を思いやった表現ができる松岡譲という作家の人間性が、この1点に現れているような気がした。
関連展示多数。鏡子未亡人の直筆も
常設コーナーの中にも関連展示がある。
松岡が交流した人物たちとして會津八一や坂口安吾、長谷川巳之吉、津田清風、堀口大學、さらに漱石の妻・鏡子や主治医の森成麟造らの展示もあり、見応えたっぷりだ。
「松岡は作家として寡作といわれているが、こうして振り返ると案外著作は多い。また直筆の書からは松岡の息づかいも感じられる。ぜひこの機会に松岡譲について知ってほしい」と伊豆名さんは話した。
にいがた文化の記憶館
「生誕130年 松岡譲」2021年7月27日〜11月3日
新潟市中央区万代3-1-1 TEL:025-250-7171
月曜休館 午前10時〜午後6時(入館は午後5時30分まで)
入館料:一般500円、高校生以上300円、中学生以下無料