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マン・レイの魅力は写真だけではない!「マン・レイと女性たち」 at 新潟市美術館

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10代の時にマン・レイの写真を見て受けた衝撃は忘れられない。女性の背中をバイオリンに見立てた1枚にすっかり虜になってしまった。モデルとなった女性も魅惑的だった。それ以降「マン・レイ=写真家」と思い込み長い時を過ごしてきた。
マン・レイ展が開催されると聞いていそいそと出かけた私は、数十年にわたる思い込みを良い意味で裏切られてしまった。まさかここまで多才な人だったとは!

マン・レイの誕生

今回の展覧会を担当した新潟市美術館学芸員の児矢野あゆみさん曰く「マン・レイの生涯を辿るような展覧会」となっている。
4章仕立てで「ニューヨーク」「パリ」「ハリウッド」「パリふたたび」と活動時期と拠点を軸に、その土地でのマン・レイの人生や人間関係を紐解きながら、芸術家としての活動に迫るという構成だ。

展示風景より、マン・レイの《セルフポートレート》(1915年)

会場に入ると迎えてくれるのは、マン・レイ自身の肖像写真の数々だ。マン・レイは1890年、ウクライナとベラルーシから移民してきたユダヤ人夫婦の間に、長男としてフィラデルフィアに生まれた。本名はエマニュエル・ラドニツキーで、幼い頃の愛称は「マニー」だった。
1897年に家族はニューヨークのブルックリンに引っ越す。父は仕立て屋で、器用だったマン・レイは仕事の手伝いもしていたという。成績優秀な彼は、大学で建築を学ぶための奨学金を獲得したにも関わらず、「芸術家になりたい」と辞退し母を怒らせた。後にマン・レイは両親と不仲になり葬儀にも出なかったそうだが、この頃から確執が始まっていたのかもしれない。

展示風景より、中央は自身の手形を使った作品《セルフポートレート》(1916/1970)

ユダヤ人としての出自を知られると差別を受ける恐れがあると、一家は1912年に姓を「レイ」に改めている。この時、エマニュエルを「マン」と改名し、マン・レイが誕生した。マンは発音上ではフランス語のMain(手)に通じるという。自らの名をキーワードに使った作品をセルフポートレートとして発表しているところに、彼の遊び心やセンスを感じた。

ダダ時代の作品

マン・レイは大学に行く代わりに、ニューヨーク・マンハッタンで友人たちとアトリエを共有し、創作活動を始める。その後、ニュージャージー州リッジフィールドに写る。芸術家村(コロニー)に住み、そこで彼の人生に影響を与える2人の人物と出会う。ひとりが1914年に結婚した最初の妻、アドン・ラクロワだ。翌15年には徴兵逃れでパリからやってきたマルセル・デュシャンと出会う。デュシャンはやがてダダの推進者となり、マン・レイに大きな影響を与えるようになる。

展示風景より、左はアドンを描いたとされる《裸体》(1912年)

そもそもダダイズムとは1916年にスイスで起こったとされている。ダダ(意味のない言葉)という標語の元に、第一次世界大戦を引き起こした西洋の旧体制を批判し、それまでの常識や秩序を壊そうとする芸術運動のこと。男性用便器を横に倒しただけのものをアートに仕立て上げてしまったデュシャンの『泉』がダダ作品と聞くと、ピンと来る人もいるのではないだろうか。
下の写真は架空の女性になりきったデュシャンをマン・レイが撮ったもの。自らを変貌させることで我が身すら芸術にしてしまったのか…と驚かされた。

展示風景より、左と中央が《ローズ・セラヴィの肖像》(1921年)
展示風景より、《障碍物》(1920/1964年)

《障碍物》と名づけられたこの作品は、1920年に制作され、1964年にマン・レイ本人によって再制作されている。「彼の特徴のひとつにあげられるキーワードが再制作。写真も後年に再制作しているものが多い」と児矢野さんは説明する。
実は一足先に長野県立美術館でもマン・レイ展を見たのだが、同じ作品でも照明の当て方でここまで印象が変わるのかという面白さがあった。実際に児矢野さんも「作品が投影する影も一緒に楽しんでほしい」と語った。

この頃の作品を見て、私はマン・レイという表現者のごく一部しか知らなかったのだということを痛感した。「はて、これは一体……」と考え込んでしまうような難解な作品もあるが、それもまた彼からの謎かけのようで面白く感じた。

ダダ時代の一連の作品

謎かけというと、この展覧会には《イジドール・デュカスの謎》という作品も出展されている。妻・アドンの度重なる浮気に我慢ができなくなったマン・レイは1919年には家を出て行ってしまい、その翌年に作られたものだ。これぞまさに「謎だらけ」という作品なので、ぜひ会場でじっくりと観てほしい。

展示風景より、右が《イジドール・デュカスの謎》(1920/1971年)。左はそれを絵の中に収めた《フェルー通り》(1952/1974年)

パリ時代

1921年にマン・レイは渡仏してパリで暮らし始める。一足先に帰国したデュシャンは彼にさまざまな芸術家たちを紹介する。詩人のポール・エリュアールとその妻・ガラ(後に離婚し、ダリの妻となる)、同じく詩人のアンドレ・ブルトンなど、そうそうたる顔ぶれだ。
「マン・レイはパリでまずは生活の糧として肖像写真を撮り始めました。それが目に止まって雑誌で女性たちのポートレートを撮るようになり、ある程度お金を貯めてから芸術家としての活動を始めます」とパリ生活のスタートを児矢野さんは解説する。

展示風景より、右が《ポール・エリュアールとアンドレ・ブルトン》(1930年)
展示風景より、《永続するモティーフ》(1923/1971年)

メトノロームに女性の目を貼り付けた『永続するモティーフ』は、残念ながら今は動かない状態での展示となっている。しかし私はこの作品の鑑賞法を発見した。作品が動かないのなら、自らが動けば良いのだ。自分が左右に揺れながら見ることで、マン・レイが仕掛けた「目」の変化が分かる。他人に見られても恥ずかしくなければ、ぜひお試しあれ。

マン・レイのミューズ、キキ登場

パリに着いた年にマン・レイはボブカットの魅力的な女性、アリス・プランと出会い、暮らし始める。彼女はキキ・ド・モンパルナスと呼ばれるモンパルナスの人気者で、藤田嗣治、キスリング、モディリアーニなど、後生に名を残した画家たちのモデルを務めたことでも有名だ。

魅惑的かつ個性的な美人のキキ

マン・レイの代表作のひとつである《アングルのヴァイオリン》は、キキをモデルに撮影されたものだ。7年間の同棲生活を経て、キキとの恋は終わりを迎える。しかし以後も2人は良き友人として付き合いが続いたという。児矢野さんは「マン・レイはいつも振られている。そして彼と別れた女性たちはその後も強く幸せに生きていく」と話した。何だかまるで福の神のような存在だと感じてしまった。

展示風景より、右が《アングルのヴァイオリン》(1924年)

キキと別れてすぐ、マン・レイに新たな恋人が出来る。写真家になろうとアメリカからやってきた女性、リー・ミラーだ。個性的な美女だったキキとは違い、リーは誰が見ても美しいと感じる正統派の美貌の持ち主。当代きっての写真家から技術を学ぼうとマン・レイに近づき、助手兼モデルとして3年間を過ごした。

リー・ミラーの写真が並ぶ

その後、マン・レイはまたしても振られてしまう。独立心の強かったリーは、後に資産家と結婚してエジプトへと旅立つのであった。
別れた後に2年かけて《天文台の時刻に─恋人たち》という1×2.5メートルの大作を完成させる。描かれているのはリーの大きな唇だ。先ほどのリーの写真と思わず見比べてしまった。

中央がリーの唇を描いたシュルレアリスム絵画の大作

歴史に名を残すような人物の作品を、マン・レイは多く撮っている。評判となった彼の元には海外からも客が訪れた。その中のひとりがイタリアの貴族、カザーティ侯爵夫人だ。撮影時のミスで瞳が4つ写っているものが仕上がってしまったが、意外にも侯爵夫人は大いに気に入り、焼き増しをして周囲に配ったという。

展示風景より、右が《カザーティ侯爵夫人》(1922年)

ファッション界との関わり

「ヴォーグ」「ハーパーズ・バザー」などの一流ファッション誌にも、マン・レイの写真は掲載されている。会場のパネルでは「衣裳をつけたモデルをマン・レイが撮ると、見たこともない斬新なアートが生まれた」と紹介されている。

一流モードの写真も多数撮影した

ココ・シャネルなどのデザイナーとも付き合いがあり、肖像写真を撮っている。横を向いたくわえタバコの1枚はあまりにも有名だが、それ以外のシャネルはどこか優しく、はかなげな雰囲気を漂わせているのが印象的だった。

シャネルの肖像写真

シュルレアリスムはモード界にも影響を与えていた。その一例として当時作られた香水瓶が展示されていた。会場ごとに見せ方が違うようで、新潟会場はまるでデパートのディスプレイのような飾り付けがされており、ウィンドウショッピング気分で楽しく眺めることができた。

香水瓶の数々

良き恋人に恵まれパリからハリウッドへ、そして再びパリへ

リー・ミラーと別れて傷心のマン・レイだったが、またしても美しい女性と出会う。カリブ海出身で「カフェオレ色の肌」を持つアディ・フィドラン(本名はアドリエンヌ)だ。彼女は白人以外で初めてファッション誌でモデルを務めたと言われている。

アディの写真と絵画

1934年に出会ったふたりの恋は40年に終わりを告げる。ユダヤ人だったマン・レイは早々にパリからアメリカへの脱出を決意。当初はアディも一緒に行くはずだったが、家族を残して行くことはできないと思いとどまる。だがこれが後に良い結果へとつながる。アディはフランスに残ったマン・レイの作品を、戦時中に守り通したのだ。展覧会場に並ぶ作品のうちのいくつかは、彼女がいなければ鑑賞できなかったのだと思うと、感謝の念が湧いてきた。

アメリカに着いたマン・レイはハリウッドに落ち着く。そしてまたしても新しい恋が!親子ほども年の違う女性ジュリエット・ブラウナーと出会い、2度目の結婚をする。結婚式は友人の画家マックス・エルンストとその恋人ドロテアと共同で、1946年に挙げた。

展示風景より、左が合同結婚式の様子。左から2人目の女性がジュリエット、いちばん右がマン・レイ

新天地でマン・レイはさまざまなオブジェの制作を試みている。《パレッターブル(パレット・テーブル)》と名付けられた作品は、パレットと食卓を組み合わせたものを作ることで「絵で食べていく」という意思表示のような作品だったのかもしれないと解説されている。しかし商業写真は止めていたものの、写真はその後も続けた。

ハリウッド時代のオブジェ。右が《パレッターブル(パレット・テーブル)》(1940/1971年)

いずれは帰国するつもりだったマン・レイが、終戦後もしばらくアメリカにとどまり続けたのはジュリエットのためだった。ジュリエットは国外へ出たことがなく、フランス語ができないため渡仏への不安を抱えていたのだ。ジュリエットの決心も固まり、ようやくフランスに戻ったのは1951年のことだった。

フランスに戻ったマン・レイが作った作品たち

晩年、マン・レイはかつて知り合った女性たちを絵画で残した。児矢野さんは「彼は女性を対等に見て、常に相手を尊重していた人」と語る。だからこそ、多くの女性を魅了して、素晴らしい出会いを引き寄せたのではないだろうか…と思いを馳せた。

マン・レイが描いた女性たち

マン・レイと添い遂げたジュリエットは、マン・レイの作品を所蔵・管理する「国際マン・レイ協会」を立ち上げる。おかげで所蔵先の把握なども行うことができ、作品がこうして残ることになったのだそうだ。戦時中はアディ、死後はジュリエット。マン・レイはやはりつくづく女性に恵まれた人だったとのだと感じた。

コレクション展とカフェも要チェック

会場にはここでは紹介しきれないほどの多くの作品が展示されている。さらに映像コーナーが設けられ、マン・レイの映画作品『エマク・バキア』『ひとで/海の星』など4作品も上映されている。
またコレクション展(7/15〜10/23)では「シュルレアリスムのひろがり/涼を愛でる」を開催。マン・レイ展ゆかりの作家の作品も展示されている。

コレクション展に並ぶマックス・エルンストの作品

館内のカフェ「こかげカフェ」では、企画展に登場する女性たちをイメージした特別メニューを提供している。鑑賞後のひとときにいかがだろうか。
下の写真のものは、キキをイメージしたバイオリンのクッキーが添えられ、ソフトクリームにはゴールデンピーチのシロップがかけられている。ヴィーガン仕様で牛乳の代わりに豆乳が使われている。
ほかにリー・ミラーをイメージしたものは唇のクッキーに赤いいちごソースなど、計4種類が用意されている。(いずれも770円・税込)

コラボメニューのヴィーガンソフトクリーム、キキバージョン

新潟市美術館
「マン・レイと女性たち」2022年7月2日〜9月25日
新潟市中央区西大畑町5191-9  TEL:025-223-1622
休館日:月曜日(ただし7月18日、8月15日、9月19日は開館)
午前9時30分〜午後6時(観覧券販売は閉館30分前まで)
入館料:一般1,500円、大学・高校生1,000円、中学生以下無料

リバティデザインスタジオ

新潟県長岡市のデザイン事務所。グラフィックデザイン全般、取材・撮影・ライティング・編集などの業務を展開。

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