川口が生んだ夭逝画家・星野辰蔵

星野辰蔵 自画像
アート・展覧会

月刊マイスキップ 2020年5月号 vol.232 より転載

企画展で発掘

 その画家との出会いは偶然もたらされた。昨年2月、長岡出身のある偉人について調べようと、互尊文庫2階の文書資料室を訪ねたときのことだった。対応に当たってくれたスタッフの桜井奈穂子さんが、星野辰蔵という旧川口町出身の夭逝画家について話してくれたのだ。
 そもそも桜井さんが辰蔵のことを知ったのは今から5年前。きっかけは長岡市合併10周年記念の企画展「郷土長岡を創った人びと展(2015年7月〜8月)」開催にあたり、川口地域の人物を探したことだった。適切な人物を紹介してもらえないかと川口歴史民俗資料館に連絡したところ「40年ほど前、町の文化祭で星野辰蔵という画家の展覧会をしたことがある」と教えてもらったのだ。桜井さんは、現在も同じ場所で暮らしている辰蔵の親族の家を早速訪ねた。

星野辰蔵 作品
小学生時代の作品。「甲」の評価をもらっている

不思議な偶然

 そこで桜井さんは応対してくれた家人から不思議な話を聞かされる。星野家では先祖の写真の代わりに辰蔵が描いた肖像画を飾っていたが、中越地震で壊れた家を建て直す際にそれらを地下室に片づけてしまった。ある時家人が突然思い立ち、ほぼ10年ぶりに絵を出し玄関に飾ったその翌日、民俗資料館から作品展示についての打診があり、大変驚いたという。
 「これはただの偶然とは思えない」と桜井さんは言う。「辰蔵さんの絵が収められていた箱を開けた瞬間、ご本人の自画像と目が合いました。そのとき、この人は世に出たがっているんだと感じました」。同企画展では、日本のビアズリーと呼ばれた水島爾保布や、日展顧問を務めた三輪晁勢らと並び、辰蔵の絵も飾られた。

星野辰蔵 作品
鮎の絵。これを玄関にかけた翌日に電話がかかってきた

辰蔵の人生

 辰蔵は1908(明治41)年5月19日、川口村岩出原(現・長岡市西川口)で農業を営む星野徳七とミサの8番目の子として生まれた。末っ子で上7人は全員兄だった。子どもの頃から絵がうまく、小学生のときに授業で描いたものが何枚か残されていたが、すべて「甲」(現在のA評価)が付けられていた。中学校卒業後、将来を嘱望され東京美術学校(現・東京藝術大学)に進み、日本画を学んだ。ところが卒業を目前に控えた1932(昭和7)年の冬、東京で交通事故に遭い、それがもとで発症した肺炎により3月1日、23歳の若さで亡くなってしまう。
 辰蔵が上京してどこに住んでいたのか、誰に師事していたのか、学友にどんな人がいたのか、全く分かっていない。それでも今回の取材に対応してくれた、辰蔵の長兄・熊太郎のひ孫にあたる星野剛さんから、熊太郎の日記を読ませていただいたことで、その人生がわずかながらも見えてきた。

大正15年3月、17歳のときの作品

熊太郎の日記

 熊太郎の日記には日々の出来事に加え、昔のことも書いてあるのだが、そこに亡き末弟の思い出がいくつかあった。辰蔵は村立尋常小学校、村立高等小学校を卒業し、小千谷中学校(現・小千谷高校)へと進んだ。どうやら辰蔵は成績優秀で、兄弟の中では唯一「上の学校まで進んだ」人物だったらしい。小千谷へ通うため、夜もまだ明けきらぬ暗いうちに家を出て駅へ向かった。雪の日にはまだ誰も通っていない道を熊太郎が提灯を下げ、辰蔵のために道を付けたと振り返っている。
 当時は大学へ進学するものはほとんどおらず、「我々如き貧農が有名な大日本美術学校(編注・東京美術学校)へ入ろうというのだから並大抵のことではない」と書いている。本来なら無理な経済状態であったが、「県の奨学励資金にあづかり」「岡村晋医師のお世話に成り」進学を果たした。辰蔵の兄の孫にあたる星野誠さんは「周囲の人たちが絵の才能のある子だと認めて、町の皆でお金を出し合ったと聞いている」と話した。地域の期待を一身に背負っての進学だったようだ。
 日記には、美術学校での辰蔵はいつも成績が「優等」で、日本画の巨匠・川合玉堂にも可愛がられ、文部省や女子学習院が作品を買い上げてくれたと書かれていた。さらに「日本画第一席」との記述もあり、どうやら学部で首席の成績を収めていたらしい。
 しかし不運にも「交通事故で胸を痛め、それに風邪を引き、遂に全快せず24歳(編注・数え年の表記と思われる)で死亡」してしまった。

星野辰蔵 作品
美術学校の近く、上野不忍池を描いた作品。星野剛さんは「幼い頃は写真だと勘違いしていた」と話した

郷里で個展

 その後、辰蔵の作品は長らく日の目を見ることはなかった。だが1973年、川口町が星野輝政町長の呼びかけで、町の文化祭にコーナーを設け、辰蔵の個展を開くことになった。当時市職員として個展に携わった桜井兵治(ひょうじ)さんは「そのころの自分の日記には『盛況だった』と書いてありました。来場者が口々に『すごいなあ』と感心していたのを覚えています」
 101歳で亡くなった長寿の熊太郎は「辰蔵が生きて居たなら有名な絵描きに成ったであろう」と日記では心情を吐露しているが、生前は決して自慢することもなく、作品について話すこともなかったと桜井兵治さんは振り返る。その個展の写真や資料は確認できなかったが、熊太郎は「けしの大掛物や忍ばずの池のほとりを書いた絵を始め、数十点の出品をかざって」と書き残している。その後、川口町は1993年12月に開催した「生涯学習フェスティバル」でも辰蔵の展覧会を開催。当時の広報誌には「全作品を集めた遺作展を期待」と書かれているが、それは実現しなかった。
 それから20年以上経ち、文書資料室からの依頼に対応したのが、奇しくも退職後に民俗資料館でボランティア説明員をしていた桜井兵治さんだった。「最初に辰蔵さんの絵を見てから40年ほど経っていましたが、すごい才能を持った画家だと思い、ずっと覚えていました。文書資料室から連絡があったときに、この人しかいないと紹介しました」
 辰蔵の絵は川口公民館図書室にも3点保管されている。川口支所地域振興課の綱博之さんは「施設が老朽化してしまい、長期計画としてリニューアルの話も出ている。将来的には多くの人に見ていただけるようにしたい」と展望を語った。

星野辰蔵 作品
最初の個展や、2015年の企画展で展示された芥子の絵

今後の課題

 辰蔵は23歳で亡くなったと聞いていたため、それほど作品は残っていないのではないかと思っていたが、星野家にはかなりの数の絵が残されていた。このまま埋もれさせるのは実に惜しい。星野剛さんも「今回改めて作品を見直して、額装や保管のことなども含め、残された作品のことを考えていきたいと思いました」と話した。
 取材の過程で東京藝術大学に確認したところ、卒業していない学生の資料は残念ながらほとんど残っていないとのこと。それでも「朝顔」「越後の或る村」という2つの作品が同校に収蔵されていることが分かった。今後何か新たな動きがあればぜひ本誌面でお伝えしていきたい。(了)

左から桜井兵治さん、星野剛さん、星野誠さん
左から桜井兵治さん、星野剛さん、星野誠さん

■協力:長岡市立中央図書館文書資料室・桜井奈穂子さん
■企画・取材・撮影・執筆:リバティデザインスタジオ

リバティデザインスタジオ

新潟県長岡市のデザイン事務所。グラフィックデザイン全般、取材・撮影・ライティング・編集などの業務を展開。

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