生誕100年 山下清展―百年目の大回想 at 新潟県立近代美術館

アート・展覧会

一昨年、生誕100年を迎えた放浪の画家、山下清(1922〜1971)。それを記念して2022年から始まった全国巡回展「生誕100年 山下清展―百年目の大回想」が、ゆかりの地新潟でついに開催されることとなった。
開場式で新潟県立近代美術館の桐原浩館長は「山下清は、誰でも出来る貼絵という技法をもって、誰にも真似出来ない素晴らしい作品を生みだした作家。没後50年以上を経た現在、そろそろ歴史的な芸術家として再評価をしなければならない時期を迎えている」と話した。

新潟との縁

開場式では清の甥である山下浩さんも登壇した。「今回の展覧会では、清の代表作のひとつ《長岡の花火》が展示されている。ぜひこの機会にその精密な表現を間近で観て、作品を楽しんでいただければ」と挨拶した。

内覧会で作品解説をする山下浩さん

展覧会は全5章仕立て。清の幼少期からはじまり、表現者としてどのように成長し、作家として円熟していったのかを辿れるようになっている。第1章は「山下清の誕生─昆虫そして絵との出合い」だ。浩さんいわく「清の幼少時は苦難に満ちたもの」だったという。生まれた翌年に関東大震災が発生。浅草で暮らしていた清の一家は、家を失ってしまう。新潟県出身の両親とともにやってきたのが新潟市の、白山神社近くだったという。この頃から清は吃音が出るようになる。
その後、東京に戻り小学校へ入るが、吃音のせいでいじめに遭うようになってしまった。友だちがいない清は、一人で大好きな昆虫の絵を描き続けた。

《ほたる》貼絵/1934年

八幡学園で才能が開花

いじめは年々苛烈になり、温厚な性格の清もついに爆発、暴力を振るい相手を傷つけてしまう。それを機に、清は千葉県の養護施設、八幡学園へ入園する。1934年のことだった。そこで、教育の一環として出合ったちぎり絵に清は没頭していく。美術に触れることで、落ち着きを取り戻した清の作品には、人物が登場するようになる。学園でようやく友だちが出来たのだ。

《剣道》貼絵/1936年

第2章の「学園生活と放浪への旅立ち」では、八幡学園でどのような創作活動をしていたのかを、知ることができる。清は表現の幅を広げて行き、それに伴い紙を細かくちぎるようになっていった。当初の紙を大きくちぎって貼るだけの「ちぎり絵」から、より精細な「貼絵」へと変化していったのだ。当時は戦争の影響による物資不足で、清は古い切手を使って制作をしたこともあった。

使用済みの切手を使った《ともだち》貼絵/1938年。珍しく女の子が描かれている

その後、清は一躍脚光を浴びることになる。1937年、38年と清を中心とした八幡学園の子どもたちによる貼絵の展覧会が、早稲田大学で開催されたのだ。さらに39年には銀座の画廊で清の個展が開催され大反響を呼んだ。この頃から清は静物画も手掛けるようになる。出来上がった作品を先生たちに見てもらい、時には何度もやり直したという。清の静物画はその細かさに加え、豊かな色彩も高い評価を得た。
そんな清が個展の翌年、突然学園を去ってしまう。長い放浪生活の始まりだった。

左:《菊》貼絵/1939年、右:《菊》貼絵/1940年

放浪の旅、そして国民的人気画家へ

2章のコーナー「放浪へと駆り立てた戦争」では、清が描いた軍隊の様子などが展示されている。清は「戦争よりつらいものはない」という言葉を残している。浩さんは「子ども時代にいじめで受けた暴力に対する恐怖が清の心に与えた影響が大きかったのでは」と推測する。その一方「伯父とよく一緒にプラモデルを作ったが、買ってくるのは零戦、軍艦、戦車だった」そうだ。

左:《高射砲》、右:《軍艦》いずれも貼絵/1938年

18歳で学園を飛び出した清は15年以上に渡って放浪の旅を続ける。と言っても、ずっと旅をしていたわけではなく、時折、実家や学園へ戻って創作をし、しばらくするとまた旅に出る…というスタイルを続けた。この放浪の旅の様子を元にテレビドラマ化されたのが『裸の大将放浪記』だ。ドラマでは旅先で貼絵を作る様子が描かれているが、浩さんによると「美しい風景を観るのが旅の目的。実際の制作は戻ってから記憶だけを頼りに行っていた」そうだ。

清が身に付けていた浴衣やリュックも展示されている

放浪時代、代表作のひとつ《長岡の花火》を制作している。1949年、清は東北地方を旅している途中、福島の辺りで長岡の花火大会のことを知り、急遽行く先を変更。翌年、鮮明な記憶を元に長岡で観た花火大会の様子を制作した。

清の代表作《長岡の花火》貼絵/1950年

新聞報道などで有名になり、気ままな旅が出来なくなった清は、1956年頃に旅を辞める。この頃、東京の百貨店で「山下清作品展」が開催され、80万人を動員した。57年からは、母と弟と同居を始め、49歳で急逝するまで家族と共に暮らした。
第3章は「画家・山下清のはじまり─多彩な芸術への試み」。国民的な人気画家となった清が、貼絵以外の表現にも取り組んだ様子を見ることが出来る。

《ぼけ》油彩/1951年。生涯で十数点ほどの油彩画を残している

1956年頃からは、マジックペンを使った点描画を始めた。ドットの粗密で陰影を表現している。

《杉並の大聖堂》ペン画/制作年不詳

「日本中ほとんど歩いてしまったので どうしても外国が見学したい」と、清は1961年にヨーロッパ旅行へ旅立つ。第4章は「ヨーロッパにて─清がみた風景」だ。旅をアテンドしたのは、五泉市出身の精神科医で清の後見人的役割を担った、式場隆三郎であった。
清の記憶を元に再現されたヨーロッパの観光名所の数々は、柔らかい色彩にあふれており、その繊細な表現はまさに表現者として脂が乗りきった時期だったことを感じさせる作品ばかりだ。

《ロンドンのタワーブリッジ》貼絵/1965年。水面や雲の表現に注目

ドイツ、イギリス、フランス、イタリアなど経由地も含めると12カ国を訪問。その時どきに観た風景を、貼絵だけでなく、水彩画やペン画でも描いた。

《パリのエッフェル塔》水彩画/1961年と、塔をバックに記念撮影をする清

円熟期を迎えた山下清

最終章は「円熟期の創作活動」だ。清は陶磁器の絵付けにも挑戦している。展覧会が開催された地方に行くと、現地の窯元を訪ね陶磁器の絵付けを行っていたという。会場には有田焼の《長岡の花火》も展示されていた。

《長岡の花火(有田焼)》色絵大皿/1957年

1965年、清は新たな制作に乗り出した。東海道五十三次を描くという企画で、取材の旅は1カ月に1度というペースで1969年まで行われた。マジックペンで色紙に描いたペン画作品をいずれは貼絵にするつもりだったが、1971年に清が急逝してしまい、それが叶うことはなかった。
その後、残されたペン画を基に、記録用の版画が3部だけ制作された。

《東海道五十三次・山のちかい町(蒲原)》版画/制作年不詳

新潟県立近代美術館の学芸員で、本展覧会を担当した今井有さんは「山下清は旅の画家。訪ねた場所でさまざまな経験を積んで、それを作品にしてきた。鑑賞しながら旅したときにどんな物語があったのか、清は何を感じたのか、そんなことに思いを馳せながら旅情を感じてほしい」と話した。

なお旅の作家・山下清にちなんで、近美コレクション展 2024年度 第2期では、「旅する新潟」を開催している(同時に「近代美術館の名品」も開催)。企画展のチケット提示で無料鑑賞ができる。
また8月18日(日)には、小さなお子さんと一緒に親子で楽しく美術に触れてもらおうと「おしゃべりタイム」が実施される予定だ。

新潟県立近代美術館
生誕100年 山下清展―百年目の大回想
2024年6月29日〜8月18日
新潟県長岡市千秋3-278-14 TEL:0258-28-4111
休館日:月曜日・7/16(7/15、8/12は開館)
午前9時〜午後5時(観覧券販売は閉館30分前まで)
観覧料:一般1,300円、大学・高校生1,000円、中学生以下無料

リバティデザインスタジオ

新潟県長岡市のデザイン事務所。グラフィックデザイン全般、取材・撮影・ライティング・編集などの業務を展開。

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