ベルギーと日本 at 新潟県立近代美術館
戦前の日本では美術を志す若者の多くがパリを目指した。そんな中わずかではあったがベルギーに留学をし、その後の日本美術界に名を成した芸術家たちがいた。画家の太田喜二郎、児島虎次郎、彫刻家の武石弘三郎の3人だ。
新潟県立近代美術館で開催中の『ベルギーと日本』は、この3名を紹介しながら、戦前の日本でどのようにベルギーの美術が受け入れられていったのかに焦点を当てた内容になっている。
同展は3名の作家それぞれのゆかりの地で行われている。今年4月からは太田の作品収集に力を入れている目黒区美術館で、7月からは児島の出身地・高梁市成羽美術館で、そして9月からは長岡(旧中之島村)出身の武石の故郷での開催となった。
ベルギーの印象派と太田喜二郎
展覧会の副題は「光をえがき、命をかたどる」だ。3章仕立ての展示の第1章は「光をえがく:ベルギーの印象派絵画と日本」。
最初に紹介されているのはベルギーの印象派、ロドルフ・ウィッツマンの作品だ。黒田清輝らが中心となって結成された美術団体「白馬会」の展覧会で作品が展示されるなど、日本と縁のある画家だ。
太田喜二郎が留学する際に、相談をしたのが黒田清輝だった。黒田は、温厚な性格の太田はパリよりもベルギーの方が合っているだろうとベルギー行きを薦め、ウィッツマンを紹介したという。
太田がベルギーに留学していたのは1908〜1913年になる。先に留学していた武石弘三郎(留学期間1902〜1909年)が、太田を停車場まで迎えにきたという。その武石との縁がきっかけで、太田は師事を希望していたエミール・クラウスのもとで学び始める。
だがクラウスは弟子を取ることを最初は渋っており、それを必死に説得してどうにか話をつけたのが武石だったのだ。クラウスの指導は厳しく、色にだめ出しをして作品を叩き付たこともあったという。
だが太田はくじけず懸命に努力を重ねた。2年半ほど経った頃には「もうひと言も言うことはない」と認められるほどになったそうだ。
大原財閥の庇護で渡欧した児島虎次郎
3人の中でいちばん留学が遅かったのが児島虎次郎だ(留学期間1909〜1912年)。当初はパリに留学したが、馴染むことができず太田を頼ってベルギーへ移った。児島と太田は東京美術学校時代の友人同士だった。太田に紹介されたゲント王立美術学校で学び、さらにエミール・クラウスも紹介され、師事している。武石から太田、太田から児島と、3人の美術家たちはたすきをつなぐように、関係を紡いでいるところが興味深い。児島は美術学校で優秀な成績を収め、首席で卒業している。
児島は岡山県生まれで、留学のきっかけは倉敷の実業家・大原家の支援によるものであった。帰国後も庇護を受け、大原家の別邸に居を構え、妻子と暮らした。留学中に児島は大原孫三郎の命を受け、現地で美術品の購入を開始。その後も渡欧し美術品の購入を続け、これが後に大原美術館誕生へとつながった。
会場には写真も展示されている。下の画像、上段右の写真は児島虎次郎(左)と太田喜二郎のふたりだ。当時は自分の写真を葉書にして友人や家族に送るのが流行っていた。
いち早く留学した武石弘三郎
第2章は「命をかたどる:ベルギーの彫刻と日本」だ。ここで長岡市(旧中之島村)出身の彫刻家、武石弘三郎が登場する。武石は3人の中でいち早く留学を果たした人物だ。新潟県立近代美術館の学芸員・伊澤朋美さんは「小さい時から木彫りが得意だったと、遺族の方から話を聞いた。そういったこともあり彫刻を志して上京したのではないか」と話した。
武石は当初、東京美術学校で木彫を専攻していたが、その後新設された塑像科で学ぶようになる。このとき指導に当たった長沼守敬は、ヴェネツィア王立学校で学んだ人物だ。武石にマンツーマンで、伝統的な西洋彫刻技法を伝授した。
武石の兄・貞松と、堀口大學の父親で外交官の堀口九萬一は漢学塾時代からの友人で、義兄弟の契りを交わすほど仲が良く、家族ぐるみの付き合いをしていた。九萬一はベルギー赴任時に現地でスチナという女性と再婚しており、その縁を頼って留学先を決めたと言われている。「ベルギーではスチナの実家で暮らし、衣食住のうち食住の心配をせずに済み、安定した生活基盤で学ぶことができた」と、伊澤さんは武石の恵まれた環境を説明した。
武石はブリュッセル王立美術学校でめざましい活躍を見せる。同校の最高試験で最高賞を受賞するほどで、自分専用の研究室を与えられ、さらに研究費を1年間支給という待遇を受けた。
美術の勉学に励むかたわら、恩師である長沼守敬にベルギーでの様子を私信として送り、それが雑誌に何度も掲載されたことで、ベルギー美術の紹介に一役買うことにもなった。
武石がベルギーにいたのは1902〜1909年。ちょうどその頃、ベルギー全権公使として加藤拓川(在任期間・1902〜1906年)も滞在していた。彼は正岡子規の叔父で、子規を支援し続けた人物。拓川は若い芸術家を応援するのが好きだったのか、武石にも目をかけたという。拓川は武石より3年早く帰国。その後日本に戻ってきた武石に援助を続け、彫刻家として大成する助けとなった。
下の画像は、三条市にかつてあった料亭若松の、主人の結婚を機に武石が制作したレリーフだ。女性の幸福そうな微笑みが印象的だが、ぜひ人物の脇に配された草花にも注目してほしい。繊細な薄い花びらの様子が伝わってきて、見ていると引き込まれてしまう。
武石の彫刻作品に続いて紹介されているのが、コンスタンタン・ムーニエだ。久米桂一郎や武石弘三郎、武者小路実篤などによって日本に紹介され、一時期はロダンと肩を並べるほどメジャーだったが、その評判は残念ながら定着しなかった。
ムーニエは労働者を主題にした作品で知られた。左下の「抗夫」は太田喜二郎の旧蔵品だ。
ムーニエの影響を受けた作家の作品も合わせて展示されている。こちらは齋藤素巌の東京株式取引所(現存せず)の建築装飾だ。左から農業、商業、工業、交通の四像で、この中でも「工業」にムーニエの影響が強く出ていると言われている。
ベルギー美術を味わう
第3章は「伝える・もたらす:ベルギー美術の紹介」だ。児島は、大原財閥の命を受けてヨーロッパの美術品収集を行っていた。それは金持ちが道楽で自身の欲しいものを集めるのではなく、日本美術界に貢献したいという崇高な思いがあった。そのような理想と使命を受け、どのような作品が集められていったのか、その一端を垣間見ることができる展示だ。
第一次世界大戦でベルギーは甚大な被害を受けた。日本では黒田清輝が中心となって、チャリティー展覧会「恤兵(じゅっぺい)美術展覧会」が1914年12月に開催された。入場者数は不明だが、売上金の3割と有志の寄付金、合わせて700円を義援金として送ることが出来たそうだ。その様子を伝える写真パネルや出品作品も展示されている。
一方、関東大震災のときにはベルギーから日本に対する救済の声があがった。ベルギーの芸術家たちが134点の作品を日本政府に寄付。1924年11月に「白耳義国作家寄贈絵画展覧会」というチャリティー展を開き、売上を義援金にあてたのだ。
当初、この展覧会に興味を持ったのは郷土の作家・武石弘三郎の作品が見られるという思いからだった。だが会場に足を運んで当時の作家たちが、様々な人物を介して繋がり、出会いがその後の創作人生に大きな影響を与えていることを知り、作品の裏に存在する物語が垣間見えて、とても興味深かった。
さらに美術の繋がりが、戦災や天災などの有事の際に国境を超えて、支え合っていたという事実にも心打たれた。
新潟県立近代美術館
ベルギーと日本 -光をえがき、命をかたどる
2023年9月16日〜11月12日
新潟県長岡市千秋3丁目278-14 TEL:0258-28-4111
休館日:月曜日
午前9時〜午後5時(観覧券販売は閉館30分前まで)
観覧料:一般1,200円、大学・高校生1,000円、中学生以下無料