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うれし楽し博覧会の歴史を知る「博覧会の世紀 1851-1970」 at 新潟県立歴史博物館

博覧会の世紀 1851-1970
アート・展覧会

昨年秋、新型コロナウイルス感染症の流行が落ち着いた合間を縫って、大阪に行ってきた。お目当ては1970年に開催された戦後最大の博覧会「日本万国博覧会」の会場跡地に建つ太陽の塔を見ることだ。
一般的には大阪万博の呼び名で親しまれているこの博覧会は、もはや伝説と化していると言っても過言では無い。総入場者数は6,241万人、2010年の上海万博に記録を塗り替えられるまでは、万博史上最多数を記録していた。
2020年は大阪万博50周年の記念イヤーで、万博記念公園の「EXPO’70パビリオン」では「EXPO’70 MUSEUM」が開催されていた。当時の貴重な映像や資料、おもてなしスタッフのホステスたちが来ていたオシャレなユニフォームなどを堪能してきた。

EXPO’70パビリオン(大阪府吹田市)に展示されている大阪万博会場の巨大な模型

ところで、そもそも博覧会っていつどのようにして始まったのだろう。
そんな疑問にうってつけの企画展が新潟県立歴史博物館で開催中だ。その名も「博覧会の世紀 1851-1970」。
これは今年2月、大阪を皮切りに始まった巡回展だ。と言っても、全国一律の展示内容ではなく、新潟展にはここだけの特別展示もたっぷりと用意されている。
担当研究員の山本哲也さんの案内で会場を巡った。

「博覧会の世紀 1851-1970」展示会場の様子

記念すべき第一回博覧会

この企画展は、多くの博物館や博覧会等の展示空間デザインを手掛けている乃村工藝社の博覧会資料コレクションをベースにしている。
第1章のタイトルは「博覧会のはじまり 1851-1911」。
博覧会の起源については「諸説あるものの、一般的には1851年開催のロンドン万国博覧会とされています」と山本さん。世界に先駆けて産業革命で豊かになったイギリスが、その国力を他国に示すために行ったイベントが記念すべき第1回博覧会なのだ。

第1回ロンドン万国博覧会の会場として造られたクリスタルパレスは、その後の博覧会建築に大きな影響を与えた
イギリスに留学した広島藩士・村田文夫が書いた「西洋聞見録」にはロンドン万博の記述がある

あの渋沢栄一も観たパリ万博

現在放映中のNHK大河ドラマ「青天を衝け」の主人公・渋沢栄一を会場で見つけた。1867年に開催された第2回パリ万国博覧会に日本政府特別使節団として随行しており、記念撮影した1枚が飾られているのだ。
パリに行くというのは当時としては大きな出来事だ。ドラマでは今後この辺りも描かれるのだろうかと考えるとワクワクしてくる。

後列左端が渋沢栄一 出典:徳川昭武と日本政府特別使節団(松戸市戸定歴史館蔵)

この万博では埼玉出身の実業家・清水卯三郎が日本人商人として初めて参画した。芸妓を連れて行き茶店を出店したところ、人気となった。その様子が描かれた絵を観ると、当時の西洋人たちが着物や畳、提灯、障子などの和文化に美を感じたのだろうかなど、いろいろ想像できて面白い。

清水卯三郎が出店した茶店と日本人芸妓たち 出典:『ル・モンド・イリュストレ』1867(松戸市戸定歴史館蔵)

圧巻だったのが1889年に開催された第4回パリ万博だ。
この万博はフランス革命100周年を記念して開催されたもので、シンボルとなる建造物として700近くの案の中からエッフェル塔が選ばれた。パリの街にそびえ立つ312mの展望台付き鉄塔に、エジソンが発明した白熱灯を施したそれは大いに目立った。今でいうイルミネーションである。電気がまだ馴染みなかった時代、どれだけ人々の目にきらびやかにまばゆく写ったことだろう。
山本さんは「万博は電気を使うことで新たな時代を世に示した。万博は蓄音機、ミシン、動く歩道、地下鉄など、それぞれの時代で最先端のものを披露して、未来の生活や文明を示唆する性格を持つようになった」と解説した。

第4回パリ万博に関するポスター類

日本での万博

日本にも江戸時代に博覧会のようなものはあったが、博覧会と銘打った最初のものは1871年(明治4年)に開催された「京都博覧会」だ。会場は西本願寺が使われた。
これは東京遷都で沈んだ京都の街を明るく盛り上げようという意図で行われたものだ。このように「政治情勢が開催のきっかけになったものもある」と山本さんは話す。先ほどの海外のものを含め、博覧会開催の裏側を読み解くことで、当時の世相が浮かび上がるのかと、納得した。

日本初の「京都博覧会」の好評を得て翌年も開催された京都博覧会の資料

博物館の起源は博覧会にあり!?

日本の博物館の始まりは1872年3月10日とされているが、それは東京国立博物館が「湯島聖堂博覧会」の開催初日を「創立・開館の日」と定めているから、と山本さんは語る。
じつはこの湯島博は大好評で、目玉展示物として飾られた金のしゃちほこを見て腰を抜かす人の錦絵が描かれるほどだった。あまりの盛況ぶりに3月10日から20日間の開催予定を4月末まで延期した。
通常は展示物は出品者の元に返却されるが、その人気ぶりに翌5月から「1と6の付く日にお見せいたします」ということになった。これが博物館の常設展示の始まりなのだとか。博覧会は文化振興にもひと役買っていたのだ。

しゃちほこを見て腰を抜かすを見物人の様子

大衆社会に広がる博覧会

第2章のタイトルは「大衆社会に広がる博覧会 1912-1945」。ちょうど第一次大戦の少し前から、第二次大戦終戦の年までに当たる括りだ。

1914年(大正3年)に「東京大正博覧会」が開催された。大正から昭和初期にかけて日本は西洋文化への憧れを募らせ、1920年代にはモガ、モボなどが登場する。この博覧会ではエスカレーターが日本で初お目見えした。ほかにケーブルカーなども描かれ一見すると楽しそうに見える。しかしポスターのタイトルには「南洋土人の喰人種」の文字があり、実際に特設館でそれらの人々を展示していたのだとか。
今なら考えられないような出来事だ。これを「当時の日本の植民地へのまなざしが現れている」と解説パネルには書いてある。
この博覧会では巨大な軍艦三笠の作り物、陸海軍の飛行機も展示され、華やかな西洋文明を楽しむ影で、軍国主義の影を感じた。

東京大正博覧会の図版と絵葉書

その一方で8年後の1922年には、上野公園を会場に「平和記念東京博覧会」なるものも開催されていた。平和と言いつつ、ここでも「南洋統治」の展示もあったらしい。
この博覧会では近代生活様式を紹介する住宅展示も行われており、「文化住宅」という言葉が生まれた。

平和記念東京博覧会 会場図

会場で思わず「何とオシャレな!」と声を上げそうになった展示があった。1936年開催の「輝く日本大博覧会」の特集雑誌だ。
これは新聞社2社が共同で開催した博覧会を紹介するもの。展示館はモダニズムの意匠で建てられたと記録されており、それを考えるとこの斬新なデザインの表紙も納得だ。
余興としてアメリカのグランドサーカスによるショーやフラダンスも行われるなど、アミューズメント施設のような娯楽も提供していた。

ホームライフ臨時増刊「輝く日本大博覧会號」

幻の万博だったけれど……

1940年に東京で開催されるはずだったオリンピックが幻となって消えたのと同様に、開催されなかった幻の万博があった。同じ年に開催を予定していた「紀元二千六百年記念日本万国博覧会」だ。この紀元2600年というのは、神武天皇即位を1年目として数えた数字。
第二次大戦により延期。最終的に開催されなかった。

この万博では抽選券付き入場券が発行されていた。要は宝くじ付きチケットのようなものだ。入場券を前売りすることで万博資金を得ようという目的があった。ちなみに1冊10円で売り出されたこの券の、1等当選金額は2千円だった。
この入場券が後に日の目を見る。日本万国博覧会協会が戦後に「これはまだ有効である」と発表。1970年の大阪万博では3千枚以上、さらに2005年の愛知万博でも100枚近くの使用が確認された。

紀元二千六百年記念日本万国博覧会の抽選券付き入場券

戦後の博覧会

第3章は「戦後の博覧会 1945−」だ。
新たな時代を迎えて万博もその性質を大きく変えていくが、戦争の影響はやはり大きかった。甚大な被害を受けた日本は平和や復興を願う博覧会を各地で開催した。

終戦から3年、160万人動員の大阪市で新聞社主催で開かれた「復興大博覧会」の様子を伝える雑誌

一方、世界の万博の中心地は、ヨーロッパから戦勝国のアメリカへと移っていく。1964年のニューヨーク万国博覧会はウォルト・ディズニーが演出を手掛け、エンターテインメント重視のイベントへと舵を切る。3年後のモントリオール万博では「テーマ」が重視された。
この2つの万博の成功が、70年に開催される大阪万博に多大な影響を与えることになった。

大阪万博

日本ではかつて過去に3回、万国博覧会開催の予定があったが、すべて実現しなかった。
1970年の大阪万博は、悲願が叶って80年越しの思いが実ったものだったのだ。

個人的に気になったのがピクトグラムだ。
初登場したのは1964年開催の東京オリンピックだが、一般に普及するきっかけを作ったのは大阪万博と言われているのだ。やはり博覧会の影響はすごいと感じた。

日本万国博覧会のピクトグラムサイン

新潟でも幻の博覧会

今回の巡回展の長岡会場だけのお楽しみが、新潟県関係の博覧会の資料だ。
新潟県は鉄道や港湾の整備を発展の礎としており、1924年の羽越線全通記念博覧会を皮切りに、交通整備網を契機としたものが開催されるようになっていった。

開港五港のひとつに数えられる新潟港だが、河港のため水深が浅く、正直あまり良い条件が整った場所とは言えなかった。そのため1896年から30年かけて修築が行われ、その完成を記念して1926年に「新潟築港記念博覧会」が開催された。

新潟築港記念博覧会や、上越線全通記念博覧会などの絵葉書

その10年後の1936年には、新潟開港70周年を記念して「日本海大博覧会」を2年後に開催することが決定した。萬代橋の近くに大きな宣伝塔が建てられ、絵葉書やマッチラベルも作られた。

日本海大博覧会絵葉書やマッチラベル

だが、日中戦争のため延期となった。
当時ほかにも仙台、甲府、京都、松江で同時期に博覧会が予定されていたが、最終的にはそれら各都市と協議の結果、中止となってしまった。

新潟県における戦後の博覧会

新潟県民は辛抱強く、粘り強いと言われる。一見地味な性格に思えるかもしれないが、反面「簡単に諦めない」という不屈の精神を持っているのではないだろうか。それを博覧会でも感じることができた。終戦5年後の1950年に開催された「新潟県産業博覧会」通称・長岡博だ。
山本さんは「これが復興の起爆剤となった」と説明した。

長岡博の会場図

もうひとつが1953年に開催された「新潟県産業観光大博覧会」通称・新潟博だ。博覧会誌には、戦前に中止になった日本海大博覧会の計画を蘇らせたものだということが明記されている。
「ほかに開催が予定されていた4都市は結局開催しなかった。幻を幻で終わらせなかったのは新潟だけなんです」と山本さんは力を込めた。

新潟博のパンフレット

こうして振り返ってみると、博覧会は良くも悪くも当時の社会状況や世相、政治、庶民の生活が色濃く反映されていることがよく分かる展示内容だった。
2025年に開催される大阪万博はどのようなものになるのだろうか。4年後の今頃は世界中の人が笑顔で日本を訪れて万博を楽しんでいますように……そんなことを思いながら会場を後にした。

なお、県立歴史博物館では「博覧会の思い出」を募集中だ。
寄せられた資料は実際に展示されるとのこと。既にいくつかの思い出の品が並べられていた。
詳しくは以下のURLまで。
http://nbz.or.jp/?p=25205

新潟県立歴史博物館
新潟県長岡市関原町1-2247-2 TEL:0258-47-6130
春季企画展「博覧会の世紀 1851-1970」
2021年3月20日〜6月6日、9:30〜17:00、月曜休館
一般840円、高校・大学生600円、中学生以下無料

リバティデザインスタジオ

新潟県長岡市のデザイン事務所。グラフィックデザイン全般、取材・撮影・ライティング・編集などの業務を展開。

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