T・ジョイ長岡支配人(21年7月まで)/功刀弘暁
功刀弘暁(Hiroaki Kunugi)
1986年3月11日生まれ
T・ジョイ長岡の支配人を2021年7月まで勤める。好きな映画は『バック・トゥ・ザ・フューチャー』で「シリーズ全作好きですが、やっぱり1作目がいちばん」と語る。現在は広島在住。
長岡市のシネコン、T・ジョイ長岡で2016年12月から2021年7月まで5年近く、支配人(マネージャー)を務めていた功刀(くぬぎ)弘暁さん。ケーブルテレビNCTの映画情報番組でナビゲーターを務めていたため、その顔に見覚えのある方もいるのでは?
実は筆者とは番組出演者仲間であり、長岡ロケなびやマイスキップなどでもお世話になった関係なのだ。転勤は誠に残念なのだが、新転地での活躍を祈りつつ、これまでのことや長岡時代の思い出などについて聞いた。
珍しい姓「功刀」
功刀さんに初めて会ったとき、印象的だったのは名字だ。失礼ながらまず読み方が分からない。由来について尋ねたところ、功刀(くぬぎ)という姓は山梨のほうに多いと教えていただいた。「僕もしっかり調べたわけではないのですが、武田信玄と何か関係があるとか、先祖が刀鍛冶の家系だったのではないかとか、諸説あるようです」
ということは山梨出身かと思いきや、意外にも生まれは東京都目黒区。父親が全国に支店を持つ証券会社に勤務していたため、異動のたびに何度も引っ越しを経験した。
生後間もなく岡山県、その後兵庫県、大阪府と小学校4年生まで転居を繰り返し、その都度転校を余儀なくされた。「だから僕にはいわゆる『地元』がないんです。いまだに憧れの気持ちがありますね」
小学校5年生の時に千葉県に移ったのを最後に転勤はなくなり、ようやく落ち着くことができた。しかしバリバリの関西弁を話す功刀少年は、「外国語をしゃべるヤツが来た!」という扱いを受けてしまったと当時を振り返りながら笑った。「さすがにすぐ標準語を覚えましたが、今でも関西圏の人と話すとつられて関西弁が出てきちゃいます」
初デートは『学校の怪談』
子どもの頃、映画を観に行くのは「ハレ」のイベントだった。母親がオシャレして、自分は弟とお揃いの服を着て、家族で出掛ける楽しい行事だったのだ。
その頃観ていたのは、東映まんがまつりやドラえもん、ゴジラなど子どもが好きな定番映画だった。だが小学校高学年の頃から、「映画はひとり、もしくは友だちと」観に行くものに変わってきた。
初めてのデートはグループデートで、皆で映画を観に行った。選んだ作品はなんと『学校の怪談4』「正直、僕はそれほど観たい作品じゃなかった。でも女の子と一緒に行くなら怖い映画が盛り上がるよねみたいなノリでこれになって。本当は洋画が観たかったんだけど」
留学で殻を破る
大学は留学プログラムのある学校に進学し、2年生のときに1年間イギリスで過ごした。衣食住、全てが違う文化に身を置いたことで「一気に視野が広がった」と功刀さん。「海外では自分から動かないと何も手に入れられないことを学びました。それまではどちらかというと殻に閉じこもりがちだったんですが、それを破って一気に解放された感じ。いろんな経験をして、自分が変わるきっかけを得た1年でした」
海外に目を向けたのは、英語が好きで字幕なしで映画を観たかったから。そしていずれは映画に関わる仕事をしてみたいとも思っていた。帰国後、その思いを実現すべく映画館でアルバイトをはじめた。自宅と大学の間にある場所という理由で選んだのが、T・ジョイ系列の劇場「新宿バルト9」だった。そこでフロア担当としてキャリアをスタートさせた。
個性的なスタッフたち
新宿という場所柄なのか、俳優・声優のたまごやミュージシャンなど、そこには個性的なスタッフが揃っていた。表現者としての将来を夢見て働く仲間たちとの仕事は「刺激的で面白かった」。
映画の専門学校に通いながら働いていたスタッフは、後に是枝裕和監督主宰の映像制作者集団「分福」に加入し、自主製作映画でぴあフィルムフェスティバルの観客賞を受賞。2020年には『泣く子はいねぇが』で商業映画監督デビューを果たした。
コンセッション(フード売店)担当だったスタッフはミュージシャンとして活動しており、カフェスペースでライブをしたり、劇場を使ってPV撮影を行ったりしていた。「それが今年公開された映画『リスタート』で主演女優を務めていたHONEBONEのEMILYさんです」
ほかにも映画『すばらしき世界』で障がい者役を演じていた俳優も、やはり新宿バルト9で働いていたのだとか。「『リスタート』はT・ジョイ長岡では上映しませんでしたが、『泣く子〜』や『すばらしき〜』の公開時には、なんだか不思議な縁を感じました」
大学卒業後はそのままT・ジョイに就職し、新宿バルト9で正社員として働き始めた。最初の担当はコンセッション業務だった。映画館の収入の大半は映画鑑賞料金で飲食はおまけのような印象があるが、実は飲食の売上が劇場の収入に大きく関わっているのだ。
アルバイト時代は言われたことだけをやっていれば良かったが、社員となると自分で考えて動かなければならない。「責任も大きくなり辛いこともありました」。しかし功刀さんはそれも「今から考えると楽しくもあった。やはり働くからには現場を知ってなんぼ」と語った。
広島ではラジオ出演
新宿バルト9では最終的に副支配人になり、その肩書きのまま2014年の夏に広島バルト11へと転勤になった。ここはショッピングモール内にある「中四国最大級の映画館」で、スクリーン数11、合計座席数1,761席を誇る。
モール内には広さ1500坪の大型複合書店があり、店内には地元FM局がブースを作り公開放送を行っていた。その番組内におすすめ映画を紹介するコーナーがあり、功刀さんは映画館のスタッフとして出演していた。
スタジオ収録ではないため、見ている人の前でしゃべらなくてはならない。「その経験があったので、NCTのテレビ出演もこなすことができたように感じています」
支配人として長岡へ
T・ジョイ長岡にやってきたのは2016年12月。昇進して支配人としての赴任だった。
それまでも夏になればフジロックフェスティバル、冬になればスノボと度々新潟県を訪れてはいた。しかし長岡市は初めてで、さらに赴任した冬は大雪だった。「消雪パイプを見て、道路から水が出ていることに衝撃を受けました(笑)」
支配人となると責任はさらに大きい。「暮らす場所も仕事も、右も左も分からない状態で悩みは尽きなかった」と長岡に来たばかりのことを振り返った。
地元テレビで新作映画をPR
T・ジョイ長岡は市内唯一の映画館だ。「この場所を通して映画を観るという文化が地域に根づいているのを感じることができました。地域密着で仕事ができた場所ですね」
その地域密着の仕事のひとつが、地元ケーブルテレビNCTの映画情報番組「シネマガイド」への出演だった。その月に上映される映画を予告編と共に紹介するというスタイルで、功刀さんは自身と劇場のおすすめ映画2作品分を担当した。
映画を宣伝するとはどういうことなのか。どのようにアピールすれば集客につなげることができるのか。毎月模索しながら自ら原稿を執筆した。「でも出演そのものは被り物をするなど、自由にやれて楽しかったですね」
足掛け6年に及ぶ長岡での生活は、突然の辞令で本年7月に終わりを告げた。なんと前任地の「広島バルト11」に支配人として赴任することになった。長岡での生活を振り返ってみると?「やはり長岡花火は印象に残っています。雪は大変でしたけれど、住みやすい街でした。支配人として初めての劇場だったので大変なことも多かったですが、長岡は自分を成長させてくれた土地だと感じています」
父親は証券会社の支店長として転勤生活だった。気づけば自分も同じような人生を歩んでいると語る功刀さん。「新しい場所にすぐ馴染んでその土地の文化を楽しめるというのは、幼少時の経験が影響していると思う」と分析した。きっと今頃は「里帰り」した広島で、忙しくも楽しい日々を過ごしているに違いない。